今朝の次男は、ここ最近でいちばん悲しそうだった。母は胸が張り裂けそうです。
まるで今生の別れのように声を上げて泣き、私と夫の服を掴んで離そうとしません。
わたしより一回り若くて可愛らしい印象の先生に「このような場合、どうしたらいいのでしょうか?」と声をかけてみると・・・
「ここに長く留まることで、悲しみが大きくなっているのかもしれません。来たとき泣いていても、遊び始めると切り替えて楽しそうに過ごしています。私たちに任せて、大丈夫ですよ。」という、なんとも頼もしい返答であった。
大人が勇気を振り絞る番か。
振り返れば、わたしの方も次男を抱きしめた手をギュっと結んだままだった。
生まれてからずっとずっと、抱きしめて一緒に生きてきた。
これからは少しづつ、離れた時間にもホッとしてその場にいられるように、導いてあげるときなのかもしれない。
それってどうすればできるのだろうか。わたしはどうやって、今こうしてホッとしているのだろうか。できるところまで人生を振り返ってみると、とても似たシーンが思い浮かぶ。
わたしも心細かったときは、母が抱きしめてくれて、手を繋いで歩いてくれた。
そうした肌の触れ合いだけでなく、両親や周囲の大人達がかけてくれた温かい言葉は、心の中にしっかりと記憶されて、ひとりぼっちのときに何度も救われてきた。
言葉や行動の表現だけでなく、母や祖母の手料理の味や、洗濯物のにおいにも、安心を感じながら生きていた。
離れていてもホッとしていられるのは、日々の小さな愛の積み重ねのようだ。
まだ次男は生まれてから4年。不安なときに離れようとしないのは、いつでもギュっと抱きしめられる距離の愛をしっかりキャッチしてくれている証拠かな。
これからも、いろんなかたちの愛を伝え続けたい。
次男のホロホロは、私のホロホロ。
悲しむ次男を見つめるのは、まるでわたしの心の奥深くを見つめるようだ。
必死に次男に語りかける言葉は、わたしにとってもいちばん必要な言葉だった。
わたしは今、自分の不出来を無視して、限界を超えた毎日を送っている。
本当は傷ついているし、悲しいのだ。
悲しむ次男を見つめているとき〝そんなに辛いなら、辞めてもいい〟と思った。
泣いている次男を見つめているとき〝頑張らなくていいんだよ〟と言った。
その瞬間、心から「そうだよね。」と腑に落ちた。心がフワっと解放された。愛する人だからこそ、気づかせてくれることがある。
次男の悲しみを安心に導くためにも、わたし自身が生き方を変えるべきときなのだ。
いつだって家族は、身をもって道しるべを示してくれる存在だ。
君の瞳に映る世界。
次男が体いっぱいで悲しむことを、尊重したいと思う。
次男が心を不安でいっぱいにすることも、尊重したいと思う。
必要なときに助けになることと、手前勝手に介入して掻き乱すことに境界線をしきたい。
悲しんでいるときは、どんな悲しみなのか想像して、一緒に悲しみたい。
不安でいっぱいなときは、不安を知ることができたから、安心も知ることができると信じていたい。
いちばん大事なことは、家族から離れて世界に出ていくとき、愛されていると忘れないこと。いつだって帰れる場所があると知っていること。自分の力を信じられることだと思う。
だから、そばで一緒に生きられるこのほんのひとときに、めいっぱいの愛を注いで、たくさんの希望を降り注ぎたい。
ホロホロ日記、また書きます。
1回目もよかったらどうぞ。